NHK視点・論点 「生き方としての"職業"・診る」


 救急車のたらい回し、産婦人科医の不足、病院閉鎖による医療過疎地の増大、など、この10年間、医療の危機が叫ばれています。マスメディアも大きく報道し、国や地方自治体も、様々な対応を始めています。

 しかし、実はもう一つの深刻な医療危機が忍び寄っています。それは医学研究者、とりわけ基礎医学者の不足ということです。このグラフをご覧下さい。これは東大医学部の学生が、卒業後、どの様な進路をとったかを過去30年以上追跡したものです。昭和62年頃、多いときには、100名の卒業生のうち20名以上が、基礎医学の研究者となっていました。彼らは、全国の大学医学部の教授となり、国公立研究所の部長となり、あるいは、保健行政などを含めた社会医学分野のリーダーとなってきました。ところが、この数は年々減少し、平成10年以降は数人以下となってきました。大阪大学、京都大学、慶応大学などでも同様の調査をしましたが、全く同じ傾向でした。基礎医学者の減少をこのまま放置すれば、10年後、20年後に、大学で医師の育成にあたる教員は激減するでしょうし、新しい治療法の開発力も大きく低下すると思います。それは、より深刻な医療の危機を意味します。

 私自身の経験を言えば、東大医学部を卒業した後、2年間、東大病院で内科の臨床を経験し、その後、病気の原因を知りたいと思い、また、アウエイでの修行を望み、京都大学へ移り、日本の生化学の父とも呼ばれる早石修教授のもとで指導を受けました。その後、スウェーデンでの留学生活を終え、東大へ戻り、現在は医学部長を務める傍ら、研究と医学教育をしています。
 医学研究者の生活は楽なものではありません。臨床医と比べれば収入も少ないし、相当の激務です。新しいことにチャレンジすればするほど、失敗の連続です。しかし、絶対的に拘束される時間は少なく、自由に自分の生活を組み立てることができます。そして丹念に自然を観察する中で、生命活動の仕組みを見つけるわけです。何年に一度かですが、非常に重要な生命現象や新しい物質を見つけたときの喜びは何にも代え難い醍醐味です。また、研究が新薬の開発に繋がる可能性が出来たことも嬉しいことです。

 臨床医が、目の前の患者を治療するという非常に重要な役割を果たす一方、基礎医学者は未来の医療を作り、結果的にはより多くの患者を救える可能性があると信じています。

 実際、我が国の生命科学にとって、研究医は大きな役割を果たしてきました。故人となられた方を一部紹介しますと、東大では、大正4年、1915年にウサギの耳にタールを塗り続け、ついに人工的にガンを作り、発ガン物質の存在を明らかにした山極勝三郎先生、カルシウムによる筋肉の収縮機構を明らかにした江橋節郎先生、また、神経伝達の機構を明らかにした京都大学の沼正作先生や、細胞の情報伝達で大きな発見をされた神戸大学の西塚泰美先生、皆さん研究医で、ノーベル賞をもらうべき方だったと世界中の多くの研究者が認めています。同時にこれらの優れた先人のもとに多くの若者が集まり、優れた基礎医学者が育ち、その後の医学の発展に大きく貢献したことも大きな業績と言うことができましょう。もちろん、生命科学は医師だけではなく、薬学部、理学部、農学部など様々な分野の研究者によって進められています。しかし、人体解剖学や生理学を含む医学教育で、人間の体をよく知り、また、病気の知識を持つ医師研究者の果たす役割は大きいものです。

 では、この様な研究医が何故、急激に減ってしまったのでしょうか?
 原因はいくつかありますが、最大の理由は研究医の待遇の悪さです。医学生は卒業して、医師になるために初期臨床研修を受けると、毎月30万円程度の給与が出ます。しかし、同じ医学生でも研究のために大学院に入ると給与は無く、逆に4年間授業料を払うこととなります。一般の家庭で育ち、30才近くまで、無給で、授業料を払い生活するのは難しいことです。もう一つは、研究費が削減され、また、研究者のポストも減らされていることです。国立大学法人でもこの10年間に10%以上の基礎医学者の教員ポストが削減されました。厳しい大学経営の中で、直近に収益とならない、研究ポストにしわ寄せが来ているためです。昨年、東大医学部の学生にアンケートをとったところ、約20%の学生が基礎研究者になりたいと望んでいるにも関わらず、進路を迷う理由として、大学院時代の生活保障が無いこと、また、将来の研究ポストが少ないことをあげています。さらに医療現場が忙しく、若手に、研究させる余裕が無くなっているという日本の医療が抱えている問題もあります。
 卒業直後の2年間の初期臨床研修が義務化され、さらに、臨床の専門分化が進み、学会が増え、各種の認定医や指導医資格が増加し、医師達は資格をとるために汲汲とし、気がつくと30代も半ばになっていることもあります。患者を診療する中から、問題を見つけ出し、研究を開始するのは、本来は理想的な医学研究になるはずですが、その頃、研究の道を歩もうとするにも、既に年齢的にも経済的にもバリアが高くなっているわけです。
 この様な複合要因で研究医が減っている以上、その対策も総合的に進める必要があります。

 国立大学医学部長会議では次の様な具体的な提案をしています。
 個別の大学では教育の改革を行い、医学生の知的好奇心や研究心涵養が必要です。また、なにより素晴らしい研究を自ら行うことにより、若者を惹きつける必要があります。また、日本学術会議や医学会も基礎医学者を増やすための施策を是非提言して頂きたいし、学会専門医制度や認定医制度が過剰にならないよう調整して欲しいと思います。 そして、国がすべきことは、基礎研究のための研究費を増額し、研究医育成のための特別コースに奨学金を付与することです。

 米国ではMedical Scientist Training Program (MSTP)が40年以上も前にスタートし、毎年170人の医学生に年間3万ドルを支給し、特別プログラムで育成しています。韓国でも基礎医学者を増やすための施策を2年前から始めています。この面でも日本は遅れていると言わざるを得ません。

 病院がつぶれる、救急患者が放置される、というのは誰でも痛みを認識できます。しかし、基礎医学研究者が不足するというのは、社会一般では、実感することは出来ず、手当は後手に回ります。急性の病気には対応するが、慢性に徐々に進む病気を見逃す、ということと同じです。10年後に医学教育者や研究者がいなくなったときに、慌ててももはや手遅れなのです。積極的な研究医確保の施策をすぐ始めて欲しいと思います。

東京大学医学部長 清 水 孝 雄